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NPR

フッドムービー史を遡る(前編)
変わり続けるフッドの景色を辿って

December 14, 2020

「フッド」という概念はヒップホップないし、ラップミュージックの文化に触れるものにとって避けては通れないものである。この言葉は本来「neighborhood」(隣人、近所)の「hood」から派生した、地元、出身地を示すスラングである。特に90年代のギャングスタラップを始め、多くのUSのヒップホップ作品で、ラッパーのフッドである貧困層の黒人コミュニティの現実が語られ、数々のストリートのリアルを表現する楽曲が生まれてきた。その中で、そういった形で語られてきたフッドの生活、または現実を物語として映像作品で描いてきたジャンル、それが「フッドムービー」である。

「フッドムービー」は数多くのヒップホップ作品と並行して、所謂フッドと言われる場所(それは時にストリートやゲトーともいわれる)の実情を克明に描いてきたと同時に、アメリカ映画のブラックムービーのジャンル史の中でも非常に重要な作品群であったとされる。それは、昨今の一連のブラックカルチャーを主軸に置いたハリウッドのメジャー大作からインディー映画にも影響を与え、いまだにジャンルをアップデートしたような作品も次々と生まれている。

一方で2020年はジョージ・フロイド氏の事件と、それを発端としたBLM運動によって、数々のヒップホップ・ソングが語り、フッドムービーが描いてきたアメリカにおける人種問題が、いまだに根深く残っていることを改めて突きつけられた年でもあった。今回の記事では、そんな「フッドムービー」というジャンルの歴史を改めて辿っていきたいと思う。数々の作品を誇る今ジャンルを遡ってみていくことで、改めてカルチャーの中でのその重要性を認識し、描かれてきたフッドの景色が今に至るまでどのように変わってきたのか、確かめていけたらと思う。

 

フッドムービーの原点とは(1970‘s~1980’s)

まず、時代をヒップホップ誕生の年とされる1973年まで遡ってみよう。実は黒人社会の現実を映した作品というだけであれば、この年以前からいくつか存在する。それは『スウィート・スウィート・バッグ』(メルヴィン・ヴァン・ピープル監督;1971年)や『110番街交差点』(バリー・シアー監督:1972年)などをはじめとする、70年代に約4年間の短いムーブメントを見せたブラックスプロイテーション映画とされる一連の作品群であり、その多くはギャングやアンチヒーローを主人公としたアクション映画や犯罪映画である。しかし、フッドムービーを語るうえで、その後の同ジャンルに括られる作品がいずれも多くの場合で若者を主人公にしていること、それにより青春映画としての側面も湛えていることは重要だろう。

フッドムービーが描いてきたものは、アメリカにおける黒人の人々の現実であると同時に、見えない将来と閉塞的な現状の間で葛藤する若者たちの姿でもあった。そういった意味では、フッドムービーはブラックムービーの系譜であると同時に、アメリカの青春映画の系譜の中のジャンルともいえる。

その視点に倣うのであれば、1975年の作品『クーリー・ハイ』(マイケル・シュルツ監督)こそがフッドムービーのプロトタイプ的な作品と言えるだろう。この作品が公開された2年前の1973年は同時にアメリカ青春映画のクラシック『アメリカン・グラフィティ』(ジョージ・ルーカス監督)の公開年でもある。つまり、アメリカ青春映画の原点的作品とヒップホップの誕生はここでリンクする。『クーリー・ハイ』が公開されたのは、『アメリカン・グラフィティ』公開の2年後、そして両方とも、近過去の60年代に時代を遡っている。

COOLEY HIGH (1975)

『クーリー・ハイ』は1964年のシカゴを舞台とする。その後のフッドムービーにイメージされるような、暴力や人種差別、コミュニティの閉塞感の描写は、まだかなり薄いと言っていいだろう。前述したブラックスプロイテーション映画が、公民権運動と、60年代後半から発生するアメリカンニューシネマの影響下で作られた作品群であるのに対し、『クーリー・ハイ』は正に『アメリカン・グラフィティ』のような若者の日常的青春映画に収まっている。これは『アメリカン・グラフィティ』からまだ間もない当時のアメリカの青春映画としても、ブラックムービーとしても新鮮な作品であったと思われる。しかし、その中でも主人公がポエトリーを書き続けていることや(正に「ストリートの詩」である)、ある人物の死で終わる結末の苦さも含め、その後のフッドムービーへ受け継がれる基盤のようなものは散見される。そういった意味でもフッドムービーの原点的な作品といえるだろう。

因みに当時、例えば前述した『スウィート・スウィート・バッグ』のアースウィンドファイア、『スーパーフライ』のカーティス・メイフィールドなど、アーティストが映画のサウンドトラックを手掛けることが、特にブラックムービーにおいて積極的に行われていた。当時のブラックカルチャーの映画と音楽の関係性は現在のアメリカ映画におけるポップミュージックの使い方やアーティストとの関係性を先取りしていた一面もある。今作『クーリー・ハイ』ではオープニングに高らかに鳴り響くスプリームス「Baby Love」をはじめ、当時のモータウンレーベルのアーティストたちを全面的にフィーチャーしている。90年代には劇中のいくつかの楽曲を、ボーイズⅡメンがカヴァーしたり(彼らのファーストアルバムのタイトルは『COOLEY HIGH HARMONY』)、Nasが楽曲「Memory Lane」にて今作を引用するなど、言わずもがな、後のアーティストにも多大な影響を与えている作品、そしてサウンドトラックでもあるのだ。

『クーリー・ハイ』が敷いたいくつかの布石は、後々のフッドムービーに繋がれていくことになるが、続く80年代には、ヒップホップのカルチャーをドキュメンタリー的に切り取った映画群が多数出現したことにも触れておくべきだろう。ヒップホップ音楽を聴くものであれば、今やその名を知らないものはいない超重要作『ワイルド・スタイル』(チャーリー・エーハン監督;1982年)は、劇映画でありながらも、当時のストリートのカルチャーを収めた記録映画のような作品でもあった。当時、いくつかのコミュニティ単位にしか波及していなかったヒップホップというカルチャーを克明に収めた最初期の映画である今作で描かれていたものは、発展途上のカルチャーに没頭する、ストリートの若者たちの姿だ。そこは彼らにとってのフッドでもある。フッドで青春をおくる若者、さらに、主人公がグラフィティライターを目指す少年であることは、今作もある種のフッドムービーとも言える十分な要素であるだろう。

WILD STYLE (1982)

その後も有名どころだけでも『スタイル・ウォーズ』(トニー・シルバー監督:1983年)のようなドキュメンタリーや『ブレイクダンス』(ジョエル・シルバーグ監督:1984年)のような劇映画まで、ストリートカルチャーを記録した作品が様々に現れ、世間がカルチャーに触れるきっかけとしてもこれらの作品は機能していく。

 

フッドムービーの全盛期(1990‘s)

ヒップホップのカルチャーと映画が密接に関係し始めた中で、80年代の終わりから90年代初め、フッドムービーないし、ブラックムービーの歴史の中で最も重要といってもいい2作品が世に放たれる。それが『ドゥ・ザ・ライト・シング』(スパイク・リー監督:1989年)『ボーイズンザフッド』(ジョン・シングルトン監督:1991年)である。

元々これ以前に『シーズ・ハヴ・ガッタ・イット』(1985年)や『スクールデイズ』(1989年)など、どちらかというとコミカル寄りの作品を撮ってきたスパイク・リーが、『スクールデイズ』で描いたテーマを拡大させ、フッドの物語として落とし込んだ『ドゥ・ザ・ライト・シング』は、奇しくも、1991年のロドニーキング事件、そしてその約1年後に起こるロサンゼルス暴動を予見するような作品ともなってしまった。

さらに、ジョン・シングルトンが初監督として手掛けた『ボーイズンザフッド』は当時最年少でアカデミー賞の監督賞にノミネートされるなど、歴史的な高評価を得た。俳優のデニスホッパーが監督として手掛け、アイスTの主題歌もヒットした『カラーズ 天使の消えた街』(1988年)、そして前述した『スウィート・スウィート・バッグ』のメルヴィン・ヴァン・ピープル監督の息子、マリオン・ヴァン・ピープルが監督した『ニュージャックシティ』(1991年)でも描かれていた「なぜストリートギャングの道に若者は進んでいってしまうのか」。この根底にあるコミュニティの問題と実情を、フッドの少年の目線で描き切った今作は、ストリートのギャングやコミュニティに対する新たな視点を人々に与え、その後、フッドの若者たちの成長や日常を描いた作品を「フッドムービー」と人々が呼ぶようになるきっかけの作品となった。

BOYZ N THE HOOD (1991)

さらにこの2つの作品はそれぞれ、パブリックエネミーとのクロスオーバー(『ドゥ・ザ・ライト・シング』)、NWAの楽曲に触発されたタイトル(『ボーイズンザフッド』)など、当時、隆盛を極めてきたヒップホップのカルチャーとも密接に結びついているのも忘れてはいけない。所謂ギャングスタラップといわれる一連のヒップホップ楽曲が語るストリートの現実、そして人種問題は、これらのフッドムービーが重要な背景を語るものとなっていく。

さらに、『ジュース』(アーネスト・R・ディッカーソン監督:1992年)や『ポケットいっぱいの涙』(アレン・ヒューズ&アルバート・ヒューズ監督:1993年)など、悲劇的なフッドの物語を語る作品が多数出現し、シリアスでハードなイメージがフッドムービーに対して定着していった。当時ギャングスタラッパーとしてのイメージを確立していた、アイス・キューブ、トゥパック・シャクール、アイスTをはじめ、ラップアーティストの役者デビューが軽いムーブメントとなったのもこの時期である。

一方で、それらの作品に対し、コミカルな形でフッドの日常を語る作品もいくつか現れる。20年後に、NWAの伝記映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』(2015年)を手掛けることになる、F・ゲイリー・グレイの初長編監督作であり、アイス・キューブが自ら脚本を手掛けた『フライデイ』(1995年)やフッドムービーをパロディ化したウェイアンズ兄弟の『ポップガン』(バリス・バークレイ監督;1995年)など、評価としてはいずれもシングルトンやスパイク・リーの作品に及ばないものでありつつも、フッドムービーにナンセンスコメディのテイストを注いだ作品として、いまだにカルト的な人気を得ている(例えばフレンチ・モンタナは「I Told Em」のMVに『フライデイ』の人気キャラクター・ディーボを登場させている)

FRIDAY (1995)

いずれも、ヒップホップとフッドムービーの共通性がメッセージの部分でも明確になり、様々な側面でそのジャンルをアーティストたちが横断し、相互的に影響を与え続けたこの年代は、フッドムービーの全盛期と記憶されていくことになる。(後編はこちらから)

Credit

Writer : 市川タツキ
Edited by : SUBLYRICS

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